運転

  昨日ラガールカードが使用出来たことは、私にとって感慨無量のものがある。これは確か平成6年頃に使っていたカードである。平成7年に私は車の運転免許を取得した。免許取得後は豊中の父の所には車で行くようになったから、多分それ以前に使っていたと思うのだが……。

  母が平成5年の4月に胆のうがんの末期であることが分かった。3か月持たないと告げられ、当時私は勤めていたので、6時過ぎに帰宅して、すぐに父母の食事を作り、父母の元に持って行った。短時間でやわらかくするために、その時から私は圧力鍋を使うようになった。
  同じ市内に住みながら、私の家と父母の家は、非常に交通的に不便な所にあった。私の家から一度駅前に出て、新たに山手の方に行くバスに乗り換えなければならず、片道1時間以上かかった。タクシーに乗れば近道をしてくれるが、たしか2500円位かかったと思う。どうしても急ぐときは往復5000円かかっても仕方が無かった。
  運転出来ればどんなに良いだろうと思ったことが、その後平成7年に仕事を退職してすぐに自動車教習所に私を行かせたのだと思う。
  正直、私は自分が車の運転が出来るとは思っていなかった。しかし、運転してみるととても楽しいのである。これは自分でも非常に以外だった。
  技能も学科も一度も落すことなく最短時間で、費用も若い人並みで、私は55歳で運転免許を取得した。当時免許取得には年齢と同じくらい費用がかかると言われていたが。
  しかしこれは何も私が偉いわけではない。私がこの歳で免許が取れたのには、家族の熱心な協力があったからだ。
  当時我が家では、免許を持たないのは私一人だったから、有り難いことに家で練習する時は、誰かが助手席に座り、教師役になってくれた。
  仮免取得後は「仮免練習中」の紙を貼って、家の近くのみならず、大阪の中央環状線近畿道の練習に、何度も何度も付き合ってくれた。
  だから本番の授業は、すいすいと通過できたのである。まさに家族の協力の賜物である。
  そして、この免許は母があの世から私にくれたプレゼントだと思っている。私が母の所に苦労して行っていたのを感じていてくれたのだろう。

  免許取得後は、豊中にいる父の所へは車で行くようになった。しかし、免許取り立て当時、大阪中央環状線の運転は、非常に恐かった。命がけで豊中の父の家に着いた感がある。「今日が私の命日になるかも知れない」と思って運転していた。


  ラガールカードを見ながら、今日は父と母のことを、懐かしく思いだした。